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阪神タイガース伝説の大投手江夏豊、その魅惑の世界に迫ります。
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 ■ 江夏の「たった一人の引退式」を終えた後、 江夏は1985年、米大リーグの
    ブリュワーズのテスト生として海を渡り、大リーグへ挑戦することとなった。
 ■ 大リーグ挑戦の契機となったのは、今のようにエーゼントがない時代で、ある
    米国人との出会いであった。西武を最後に現役を引退した後、評論家として
    契約した雑誌社の仕事でヒューストンに出張し、「ウィンター・ミーティング」
    を見学した時だった。いわゆる野球選手の人間市場で、メジャーリーグをクビに
    なった選手をセリにかける場である。そこに、何度か顔を合わせた人がブリュワ
    ーズのスカウト部長だった。かなりの日本通で江夏のことも良く知っていた。
 ■ このスカウト部長から、「すぐにメジャーに上がれるかどうかはあなたの腕次第、
    しかし、そのチャンスを与えたい」と言ったそうである。
    江夏の時代は、メジャーへ挑戦する環境でもなく、米国は日本のプロ野球を
    鼻にもかけていなかったので、若いときから、メジャー挑戦など夢にも思わなか
    った。しかもこの年、36才になっていた。
 ■ しかし、最後の西武で不本意ながら退団に追い込まれた悔しさ、心の奥底に
    はあと2~3年はやれると思っていた気持ちが残っていた。苦渋の末、「結果は
    どうであれ、完全燃焼して野球人生を終えよう」と決意した。
 ■ こうして、1985年3月、アリゾナのミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに
   参加。テスト生だった。テスト生ゆえ、日本での江夏の待遇とは雲泥の差であった。
   日給25ドル〈当時のレートで6250円)、身辺はすべて自分でやらなければならな
   かった。キャンプからほぼ、順調に結果を出し、オープン戦でも好調をキープ。開幕
   ロースター〈メジャー)入り最終選考まで残るものの、最後の最後で調子を落とし、
   開幕メジャーリーグとはならなかった。
   1985年4月2日監督室に呼ばれた江夏に「ミスター江夏、よく頑張ったが最終段階
   で君を必要としていない」とはっきりと宣告された。
 ■ チームメートから「グッドバイ」ではなく、「グッドラック」と何人もの選手に声をかけら
   れた。最初、「グッドラック」の意味があまりよくわからなかったが、「よく頑張った。
   だが、運がなかった。あきらめるな。どこかでのグランドでまた会おう」という深い
   意味であることを実感したという。そして別れにパーティーを開いてくれてプレゼント
   を渡された感激をいつまでも忘れないと語っている。
 ■ 
江夏と最後までメジャー枠を争ったテッド・ヒゲーラは、この年に15勝、翌年は20勝
    をあげた。彼が日米野球で来日した際、江夏と過ごしたことを忘れておらず、江夏
    の元に真っ先に駆けつけ握手を求めたという。

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   審判泣かせ、あるいは審判の判定技術の向上に貢献したとされる江夏の投球術
   について元セリーグ審判部長の田中俊幸氏の談をもとに紹介したいと思います。

■ 審判の判定技術
    ストライク、ボールの判定では多くの訓練を重ねた審判には、多少の技術の差は
    あってもそんなに判定の差は現れない。 しかし、審判泣かせの投手がいること
    は、多くの審判が認めている。稲尾和久、江夏豊がその代表選手と言われている。
    つまり、審判の判定能力の限界を超えて投げてくる投手で、コントロール、頭脳戦
    で抜群の能力を持った投手である。
 ■ 阪神時代の江夏
    全盛期の阪神時代では剛速球とコントロールで勝負していた。そのコントロールの
    良さについて元セリーグ審判部長の田中俊幸氏は江夏について次のように語って
    いた。
    「右打者の外角低めにストレートを3球続けて投げ、初球、2球、3球と徐々に2~
     3cmずつ外して投げた」と外角ぎりぎりのコースに3cm違いのボールを自由自在
     に投げ分けることができていた」と語っている。
    「審判はその差を一瞬の内に見抜き、ボールのほんの一部がホームプレートにかか
     ったからストライクと判定しなければならないが、これは至難のワザであり、審判の
     判定技術を試していたふしがある。」
    「1球目ストライク、2球目はぎりぎりのストライク、3球目はボールのはずだが、思わ
     ずストライクと判定させるすごいコントロールを持っていた」
    「この3球目のストライクの判定に打者や、球場のファンからブーイングがでることは
     なく、江夏ボール面目躍如の一瞬であった。」
 ■ 広島時代の江夏
    リリーフエースとなった江夏は1978年南海からトレードされて再びセリーグに戻り、
    広島に入団した。30才になっていた江夏は往年の剛速球とコントロールの投手か
    ら、「真ん中に投げても打たれない投手」に進化していた。
    打者に打ち気がないと見ると真ん中に投げて」くる。カーブを狙っていると見ると、
    直球で真ん中を投げていた。その配球の見事さでピンチを防ぐ投手に進化し、あの
    江夏の21球が象徴的である。
fc140cf1.jpg 阪神タイガースの川藤幸三は代打、または控えの選手だったが、レギュラー選手に劣らない人気を誇っていた。川藤は生涯たった一度だけ出場した1986年のオールスターで、代打で出場し、見事に左中間を抜くばかりの快打で2塁ベースに滑り込んで、数メートル前でタッチアウトになったシーンを今でもはっきり、思い出すことができます。
 川藤は江夏の1年後輩。 二人は現在のビジネス感覚の選手が多い選手と違って、しんから野球が好きで、数字よりも野球の面白さ、素晴らしさを思う存分堪能させたてくれた貴重な選手だった。 二人の言動は、いわば、昭和最後の「野武士野球人」と私は呼んでいる。

 ■ 川藤幸三の記録
在籍年数 試合数 打数 安打    本塁打 打率
19年 771 895 221 16 0.236
   川藤の誇るべき記録は、19年間阪神に在籍したことで、歴代阪神選手の中でも、兄貴分遠井吾郎の20年に次ぐ歴代2位の記録である。2軍暮らしが長く、解雇の危機が何度もあったが、「阪神一筋で野球ができるなら給料は要りません」と頼み込み、何とかしのいだ。このことから、「浪速の春団冶」と呼ばれるようになった。川籐が1軍に定着し、欠かせない代打として認められ始めたのは1984年~1986年の3年間であった。この時代は、真弓、バース、掛布、岡田らがいた打のチームで、川藤も1985年リーグ優勝の一役を担った。
  川藤にとって最も特筆すべきは、生涯安打数が211で、この数字は例えば、イチローが1年間で打つヒット数で、19年間で達成したのは実に偉大と言っていいでしょう。
  
 ■ 江夏豊と川藤幸三
  江夏豊と川藤幸三。この二人は、かたや、偉大なスター選手、一方は1軍半の選手であったが、野球をこよなく愛し、その熱い思いからくる一芸が二人にあってファンを熱狂させてくれました。
  巨人V9を筆頭に1980年代を境に、プロ野球選手は徐々に数字、勝敗至上主義、チームの優勝という組織野球に傾いていく。それまでは、豪傑、選手個人の芸と魅力でプロ野球ファンを堪能させていた。阪神タイガースにその傾向が特に強く、江夏豊、そして川藤幸三がその代表選手であった。彼らは、グランド外では豪傑のエピソードが数多い。グランド内では、あふれんばかりの真剣勝負のワザを披露し、言動はホンネの直情主義のため、良くも悪くも、野武士、無頼派であった。
  二人は川藤が2軍の時から、公私とも付き合いが深く、昔の先輩・後輩付き合いの典型であった。川藤は江夏に何でも言う間柄だったという。例の江夏大麻事件で出所後、ゴルフで江夏に会った時「先輩、刑務所暮らしはどうだったですか。おもしろいこと、ありました?」と言ったといわれている。こんなことを平気で江夏に言えるのは川藤くらいのものであろう。 小川洋子原作・小泉尭史監督の映画「博士の愛した数式」、背番号28の江夏が空想の人物として登場するのですが、この映画の試写会では二人揃って駆けつけ、独特のトークで爆笑を誘い、会場を沸かせた。 
  なお、江夏と川藤の対決は2回あったという。広島に移籍した江夏と代打の川藤、死球と2塁打だった。ほぼ同年代に生きてきた私、二人が思いっきり見せてくれた偉大な野武士野球人に敬意を持っています。今は、二人とも評論家となり、その面影・言動は、今も変わっていないのが救いです。


 ■ ライバル列伝 阪神vs巨人
    江夏豊が在籍した阪神タイガース時代には江夏豊、村山実、田淵幸一というスタ
    ー選手、一方宿敵巨人には、長嶋茂雄、王貞治をはじめとするV9打撃陣の他、
    投手には堀内恒夫がいた。江夏豊vs王貞治、村山実vs長嶋茂雄が伝説のライ
    バルと語られることが多い。 
    この時代には阪神はやはり投手力、巨人は打撃力が中心だったが、こと投手に
    ついて語るとしたら、江夏豊の投手ライバルは堀内恒夫であった。
 ■ ライバル堀内恒夫
    現役時代の堀内の思い出と言えば、阪神ファンのわたしとしては、後の江川卓と
    ともに、憎き選手であった。阪神が何度もヤラレタという印象が強い。
        堀内は江夏豊が入団した年の前年、1985年ドラフト1位で巨人に入団。江夏の1年
   先輩に当たる。1年目、初勝利から13連勝と鮮烈なデビューで注目を浴び、以後
   V9時代の巨人のエースとして君臨した。
    現役時代のアダナが「悪太郎」、「甲府の小天狗」。この時代の一流選手がそうで
   あったように自信満々、ふてぶてしさが江夏と似ていて、堀内もマスコミに受けが
   悪かった。持ち球は直球と鋭いカーブ。球種がたったの二つ、、ふてぶてしさ、度胸
   満点のピッチング、マスコミ受けの悪さ、ときに思いがけないホームランを打つなど、
   阪神のエース江夏と巨人のエース堀内は重なる点もあった。
   200勝も達成し、引退後、巨人の監督を2004年~2005年の2年間務めたが、思う
   とおりの結果残せず、いつもの巨人監督交代劇で原辰徳監督に交代した。
 ■ 記録からみる江夏豊と堀内恒夫
通 算 成 績  江 夏 豊 堀 内 恒 夫 
在籍年数 18年 18年    
登板数 829 試合 566 試合
勝利数 206勝 203勝
敗数 158敗 139敗
 セーブ 193  6
奪三振 2987 1865
被本塁打 299 323
防御率 2.47 3.27 
  貧打の阪神打線をバックにした江夏と強力打線をバックににした堀内を比較する
  のは江夏には酷であるが、無理して、両者を記録の面で比較しました。  
  大きな差があるのは登板数、セーブ数、奪三振数である。
  江夏が阪神を去った後は、いわゆるリリーフエースとして、肝心な時に必ず江夏が
  登板して、試合を締めくくっていた。堀内は先発専門であったので、この差が出ている
  のは当然と言えば、当然と言えよう。
  在籍年数が共に18年、勝敗数はほぼ似通っているが、特筆すべきは、やはり、江夏
  の真骨頂である奪三振に大きな差があることで、共に剛速球であってもコンロール力
  に江夏が大きく勝っていたからである。
 ■ 堀内恒夫の江夏豊評
  共にライバルだった二人は、後年になって、後藤正治著 牙ー江夏豊とその時代

  によれば、堀内は江夏のことを次のように語っている。 
  「左腕で、右バッターのアウトコース低めにかくもコントロールされたヘビー級の球を
  投げ込んだピッチャーは江夏以外にいないし、これからもおそらくお目にかかることは
  ないんじゃないかな」
  「江夏との投げ合いになれば、2点とられたら、負けだと思って投げていましたからね。
  奴もきっとそうでしょう。だから、いったん点が入ってしまえばガクッとして雑になって
  しまうところがあった。」
  「甲子園での試合で、僕が打者で18球ファールしたことがあった。すべてストレート
  だった。なんで、真っ直ぐばかりだったのか。僕はバッティングが良かったが、所詮
  ピッチャー。ひとつかわす球を投げられたら、粘れるものではなかったのに・・・」
  このシーンを江夏も覚えていて、
  「ありましたね。そんなこと。きっと意地になって投げ込んだんだろうね。相手が堀内
  だったから」
江夏豊と落合博満は何の関係もないように見えるが、実は、一匹狼落合は同じ一匹狼江夏から大きな影響を受け、打撃開眼したことが知られている。

■ 江夏豊の一言     
ねじめ正一「落合博光変人の研究より
ねじめ正一氏の著書「落合博満 変人の研究」の対談の中で、江夏は「一番攻めにくい打者のタイプはある球種をひたすら待つ者」とコメントしている。その典型が落合博満で、ある時江夏は落合と麻雀を楽しみながら「オチ、何で俺から打てないかわかるか?」と問いかけ、答えに窮する落合に「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ。お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と言ったという。落合がまだ、三冠王をとる以前のことである。

■ 落合博満が変貌した日
その後、1982年のロッテオリオンズとの試合で満塁の場面で江夏は落合と対戦。結果は江夏が三振に切って取ったものの、この打席で落合はカーブに狙いを絞り他の球種には見向きもしなかった。その時の投球を江夏はよく覚えていて次のように語っている。

「その時の配球は、いまだに忘れられないですよ。一球目カーブ、ど真ん中。平然と待っていました。二球目カーブ、これも見送った。三球目、キャッチャーの大宮龍男はいろんなボールを要求しましたけど、全部、首振ってもう一つカーブ放った。つまり、カーブ、カーブ、カーブです。それも落合は見送って、三球三振。それで平然と帰ったんです。
その姿を見て、あ、落合は変わったなと思いました。」(第2章「落合が変貌した日 江夏豊」より)


■ 落合博満 江夏豊を語る        落合博満著 勝負の方程式
より
ヒットを打ったり、ホームランを打ったりするのもバッターの楽しみだが、高度な駆け引きのできるピッチャーとの対決も、また格別の味がする。
マウンドとホームベース間は18.44mある。この距離をはさんで、頭脳の勝負ができるというピッチャーは、両リーグあわせても、精々5本の指で足りる。そんなピッチャーのひとりが江夏さんだった。「おれは、このボールを待つ。おまえは何をほうってくる?」18m余の距離をはさんで、お互いの考えている球種、配球を探り合う。彼のほうるボールを読みきって打ったときのヒットの味は格別である。

打ち取られても、いままでにみせたこともないようなボールをほうらせた時はホームランの味にもまさる。弘前のように・・・・・・・。 この一球を打ち損じたら私の負け、といった姿勢で私は全打席、彼(江夏)と対戦してきた。全神経をを使わなければ結果を出せないピッチャーだったからだ。

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横浜虎キチ、68才。
江夏、村山、田淵時代以来の虎暦40年、現役では福原忍投手のファン。
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