[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
■ 1979年、広島と近鉄の日本シリーズのことである。3勝3敗で迎え た第7戦、その時、わたしは偶然、TV中継をみていた。
絶体絶命のピンチを迎えた九回裏、江夏豊は奇跡ともいえる、球史に残るドラマをやってのけた。その時はスリル満点で終わった後は興奮が収まらなかったことを覚えている。
■ このあまりにのもドラマチックな名場面は、その後、優れたスポーツライターであった、故山際淳司の「江夏の21球」という短編小説の題材となった。「スローカーブをもう、1球」という本の1編として著されている。
■ 場面はいかのような展開となった。
3勝3敗で迎えた第7戦で、広島カープは4-3とリードして9回
裏の攻防に入った。
この回を0に抑えれば、広島初の日本一に輝く。
第1打者は羽田耕一。羽田、初球をセンター前にヒットして無死一塁。代走に藤瀬
に変わる。
第2打者はアーノルド。打者アーノルドの時、藤瀬盗塁に成功して一挙に無死3塁
となったため、事実上敬遠の四球、無死1、3塁となる。代走吹石。
第3打者は平野光泰、敬遠となって無死満塁となった。
無死満塁の絶対絶命のピンチで、広島初の日本一は悲願に終わると誰もが思った。
ここで、近鉄は投手山口に代え、代打佐々木恭介を送った。佐々木はヒット性の
ファールを打つが、最後は三振の終わり、1死満塁となる。
次打者は石渡茂。初球ストライクの後にクライマックスが訪れる。
1-0の時、3走者がいっせいにスタート。石渡がスクイズの構えをする。水沼が
立ち上がる。江夏は外した球を投げる。石渡は飛び付くようにバットを出してスクイズ
を試みるが、ボールは水沼のミットの中へ。藤瀬は三塁に戻ろうとするが、既に二塁
走者の吹石が三塁に達しており、戻ることができず、、水沼にタッチされ、アウト。
このスクイズ失敗によって二死二・三塁となる。
この大きなヤマ場を切り抜けた江夏は最後に石渡を三振に打ちとり、ゲームセット、
広島が初優勝を飾った。
■ 核心の場面で、江夏が、どのようにスクイズを外すことができたのか?
スクイズを外した石渡への19球目、江夏はカーブの握りをしたままボールを
ウエストし、スクイズを外している。
一般に、投球動作に入ってからカーブの握りでウエストすると普通は暴投になる
のでいわば、奇跡か神業に近いワザと言われていた。この謎のウェストボール
が神秘性と劇的な幕切れとして忘れることができない。
いずれにしても、多くの人々を熱狂させた「江夏の21球」。左腕江夏の伝説で
あると同時に、球団史を彩るエポックとして、二十一世紀も現として生きている。
小川洋子の「博士の愛した数式」と山際淳司の「スローカーブをもう一球」に収められた
「江夏の21球である。 どちらも今までにない斬新な視点で江夏豊像を見事に描きだ
してくれました。
プロ野球広しといえども、小説の舞台に登場したのは江夏豊だけ。他の分野から見ても
魅惑の人物なのである。
スローカーブをもう一球
■ 「江夏の21球」という名文句をはじめて使ったのは確か山際淳司だったと思う。もともとは1980年、文藝春秋社のスポーツグラフィック・マガジン「ナンバー」創刊号に載った山際淳司の『江夏の21球』であり、これが後に他の短編と一緒に出版された「スローカーブをもう一球」である。
■ 「江夏の21球」はもちろん、1979年日本シリーズの近鉄バファローズ対広島カープ、両者3勝をあげた第7戦での、広島絶対絶命のピンチの場面で活躍した江夏豊を描いたものである。
■ 感動、人間ドラマ、根性論を中心としたスポーツドキュメンタリーとは全く違う視点で描きだしてい点である。山際淳司の優れた視点とは、関係者の取材をもとにして、著者の主観や考えをまったく交えずに、冷静沈着に鮮やかに描ききった点にある。その執筆スタイルは、プロ野球評論家にも影響を与え、特に若い読者に圧倒的な支持を得た。
■ この中で、印象に残る一場面は一塁を守っていた同僚、衣笠祥雄とのやりとりである。
絶対絶命の場面で、古葉監督は同点にされることを意識し、既に次の攻撃・打席の(江夏に打順が回る可能性があった)ことを考え、代えのピッチャーに準備・肩慣らしをさせていた。江夏はまだ信用を勝ち取ってなかったのかと心中で悔しさを爆発させていた。そこに一塁の衣笠は、「俺もお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな、やめるなら一緒に辞めよう」と声をかけたという。
衣笠だからこそ、江夏の心を完全に汲み取ったもので、江夏を後押し、結果的に球史に残る偉業を成し遂げた。 衣笠との交流は後年、江夏は「うちの嫁さんよりサチ(衣笠祥雄)と一緒の方が多かったなあ!」と言わしめた程である。
■ 山際淳司はこの作品集「スローカーブを、もう一球」で、1981年に第8回角川書店日本ノンフィクション賞を受賞し、その後、理知的な風貌、紳士的な語り口で静かな評判を呼び、NHKの「サンデースポーツ」のメインキャスターを務めた。
しかしながら、1995年、胃癌による肝不全のため、46歳の若さで急逝、惜しまれながら、この世を去った。山際淳司はスポーツノンフィクション分野のパイオニアであり、現在活躍している二宮清純など若いスポーツライターやスポーツ小説家に大きな影響を与えているのは間違いない。
辻 佳紀 (阪神) |
小山、村山、バッキー時代の生捕手を務めた辻佳紀であり、ヒゲ がトレードマークのため、同僚同名の辻恭彦と区別するため、 「ヒゲの辻」と呼ばれていた。 江夏が入団した1967年当時は、二人の辻が捕手を務めており 江夏が投げる時の捕手を務めることは少なかったが、独特の キャラクターで人気を博していた。この時代の阪神の捕手は分業 で、辻佳紀はバッキーとの組み合わせが多く、江夏登板時は ほとんど辻恭彦と記憶している。 辻佳紀は1975年、阪神の選手兼ヘッドコーチを務めたが、田淵 幸一の扱いをめぐる吉田監督との確執で、退団した。愛すべき ヒゲの辻はガンのため、48歳の若さで他界したのが惜しまれる。 |
辻 恭彦 (阪神) |
もう一人の辻、辻恭彦は「ダンプの辻」と呼ばれていた。頑丈な 身体と運送会社出身のため、この異名が付けられたと言われて いる。 投手に乾いた良い音が出るように、ミットのスポンジを抜いてほと んど素手に近い捕球したことで知られている。 江夏が入団した時、藤本定義監督が「江夏のように繊細でわが ままなタイプにはダンプが向いとる」として徹底してダンプをつけ させた。実際、江夏自身もダンプのキャッチング技術を高く評価し、 多くの投球術を学んだと語っている。田淵幸一が正捕手になる まで、江夏の正捕手はダンプであった。 あの稲尾の奪三振記録を意図的に王貞治からとった時の捕手も もちろんダンプであった。「江夏のたった一人の引退式」でも江夏 のために駆けつけていた。 |
田淵 幸一 (阪神) |
法政大のスター選手から鳴り物入りで阪神に入団した田淵、後に 江夏と黄金のバッテリーを組むこととなった。良家でお坊ちゃん風 の田淵、曲者揃いの捕手の中にあってその素直な明るい性格で 多くの阪神ファンを魅了させた。阪神には辻佳彦、辻恭彦といった 守備に定評のある一流の捕手がいて、その守備力に疑問符が あったのは事実で、一時は一塁手転向説まで出た。江夏も捕手と しては辻恭彦ほど評価していなかった。素直すぎて繊細な江夏と 好対照でやや大雑把過ぎた性格が災い過ぎたのかも知れない。 江夏もその人間性について「ブチほど純粋で裏表のない人間は いない」と述べている。 田淵の本領はやはり打者としての素質であり、特に美しい放物線 を描いた芸術的なホームランを決して忘れられることはない。投打 の大黒柱「黄金のバッテリー」が阪神ファンの誇り、自慢であった。 |
野村 克也 〈南海) |
江夏への野村の最大の功績はリリーフという新たな投手の重要さ と定着を図ったことである。阪神から南海へトレードされた背景には 、かつての速球のスピードを失い、打ち込まれる機会が増えたこと にある。そこに頭脳派で緻密な野球を展開する野村と出合ったこと は、それ以降の江夏の復活に大きく貢献した。 野村は江夏が例え急速が衰えても卓越した配球術を持っていること を見抜いていた。そこで、江夏の誇り高いプライドを取り戻すため、 「リリーフで野球革命を起こそう」との誘いかけに江夏が期待に応え た。 豪放磊落とは裏腹にもともと研究熱心な江夏に野村も驚いたそう ですが、、野村監督もいわゆるID野球の元祖、そしてアイデアマン でもあったので、この点では波長が合っていたのかも知れない。 「今まで自分は野球が一番できる、知っていると思っていたが、自信 過剰だっただけで、野球学の程度があまりにも低かったと言うことが 分かった」と言うほど野村監督から学んだはずである。 |
水沼 四郎 〈広島) |
捕手にしては細身、風貌は現在の阪神では矢野に似ていて矢野を 小柄にしたような身軽さが印象的であった。わたしは広島ファンでは なかったので、詳しい水沼の活躍は良く知らないのですが、地味だが 勝負強いというイメージが定着していたそうである 守備は完ぺきな捕球、スローイングやリードには派手さはないが、 正確な捕球こそ捕手の原点であると信じていたようである。 江夏の捕手としてはやは、「江夏の21球」のファンの記憶が強烈 である。水沼は「高二の時、中学生だった江夏の球を一度受けた ことがあってね。因縁を感じたよ」と語っている。 江夏も、盟友衣笠祥雄などがいて、優勝を味わった広島時代が 一番幸わせだったと語っている。 |
大宮 龍男 (日本ハム) |
1997年ドラフト4位で駒澤大学から日本ハムに入団。 入団5年目の1981年、広島カープより移籍してきた江夏豊、大沢 啓二監督の『(大宮を)一人前にして欲しい』という申し出により徹底 的にリード、配球面で鍛えられた。リード、配球術に卓越した江夏の 指導により、日本ハムの代表的な捕手として成長した。 そして、江夏とのコンビで1981年のリーグ優勝に貢献した。現役引退 後は西武、日本ハムのコーチを経て、北海道放送の解説者を務めて いる。 江夏とは私生活でもし親しく、江夏が監督となっているプロ野球マス ターズ「東京ドリームス」の捕手としてオールドファンを楽しませている。 |
伊藤 勤 〈西武) |
1982年、球団職員の身分から、1982年ドラフト1位で西武に入団。 |
江 夏 豊 が 仕 え た 歴 代 監 督 | ||
藤 本 定 義
1967年-1968年 |
巨人の川上哲治を「哲」と唯一呼び捨てにでき
た阪神タイガースの伝説的総師で江夏の育て の親。 孫ほどの年齢差があったので、江夏を本当 の子供のように可愛がった。世間しらずで右も 左も分からない江夏。父親のいない貧しい 家庭環境で育っていて、わがままで、ひねくれ た性格、そして野球馬鹿。そんな江夏だが、 江夏は10年に1人のピッチャーであることを 見抜いて大事に育てた。 藤本監督は「先発ローテーション」を本格的 に導入した最初の人で、当時は勝つためには エースの連続登板も普通のことだった。「30勝 投手を出すのは監督の恥」と言った位だった。 ローテーションをきちんと守った投手起用行い、 1962年と1964年は小山正明、村山実、バッ キーを軸にリーグ優勝した。 1997年、心筋梗塞のため死去、享年78でした。 |
|
後 藤 次 男
1969年 |
藤本監督が健康上の理由で、監督を辞任 したため、後任に後藤次男ヘッドコーチが就 任した。後藤監督はつなぎの後藤と言われ、 大物監督藤本定義、吉田義男の後釜とし て暫定的な監督の役目を2度果たした。 後藤次男は「クマさん」とチーム仲間から呼 ばれていて、怖さを全く感じさせない、そし てアッケラカンな人柄で、当時新人に近い 江夏とも麻雀を気軽に興じていたらしい。 後に、江夏は「野球ノート」で詳細な記録 をつける習慣を身につけたが、もとはと言え ばクマさんの「勝負事ノート」と言われてい る。野球以外にも麻雀、パチンコ、競馬、 競輪の結果も書かれていた。後藤は「俺は 酒も飲まないし、子供もいない、野球とこの ノートをつけるのが趣味だ、いまではクセに なって書かないと落ち着かない」と語って いたそうです。 |
|
村 山 実 1970年-1972年 |
闘志むき出し、全身を使ったダイナミックな ピッチング「ザトペック投法」で阪神ファンに 強烈な印象を残した。特に巨人に対しての ライバル心が強く、村山実vs長嶋茂雄の 構図は江夏豊vs王貞治と共に多くのプロ 野球ファンを楽しましてくれた。 村山は監督と同時に、投手としての江夏の 師匠だった。阪神のエース村山から、次の エースとしての江夏に対して、厳しく、英才 教育を行った。選手の中でしかられ役も 江夏だったし、相手に対する闘争心 「江夏豊vs王貞治」という厳しくも質の高い 投球術を磨くのに貢献した。 阪神時代の江夏は監督との軋轢が多かっ たが、育ての親藤本定義と師匠村山実だけ は相性が合い、両監督だけは尊敬していた。 村山実の「涙の引退式」には田淵らと共に 江夏が率先して村山を肩車に乗せてその 偉大な功績を讃えたことは忘れられない。 1998年,直腸ガンのため61歳の若さで この世を去ったのが本当に惜しまれる。 |
|
金 田 正 泰
1973年-1974年 |
村山が同年限りで現役を引退したため、
1973年からは正式な阪神監督に就任した。 選手時代から監督に至るまで、阪神一筋 を貫いた。 選手時代は俊足巧打、守備もうまく、一番 監督辞任後は野球解説者にはならず、 |
|
吉 田 義 男
1975年 |
吉田監督と言えば、真っ先に思い出すの |
|
野 村 克 也
1976年-1977年 |
江夏が阪神から南海へ電撃トレードされ た時、野村監督は当時の江夏の投球力、 性格を熟知していた。そのアイディアはリリ ーフ専門投手に転向させることだった。 ただでは納得しないとみた野村は「野球 革命を起こそう」という殺し文句で、「誇り 高いリリーフエース」の地位を確立させた。 そして後に有名になった「野村再生工場」、 江夏が第一号と言える。 1999年~2001年野村は阪神の監督を 勤めたが、3年とも最下位に終わった。 阪神ファンは野村監督の手腕に賛否両論 に大きく分かれた。しかし、野村監督は 新庄剛志、桧山進次郎、赤星憲広ら若手を 一人前に育てた功績は大きい。 江夏との関係でいえば、「野球IQ」の点 で二人ともずば抜けた高さで、全く相性が 良いと言えます。なので、野村監督の 私生活は別としても恐らく、江夏は野村 監督の野球術を深く尊敬しいると思わ れる。 |
|
古 葉 竹 識
1978年-1980年
|
広島東洋カープを史上初のリーグ優勝に導いた 1979年、有名な「江夏の21球」の場面で、古葉 |
|
大 沢 啓 二 1981年-1983年
|
パ・リーグ優勝争いを演じるようになった日本 |
|
広 岡 達 朗
1984年
|
入団当初から危惧された予想が的中し、広岡 達朗監督とは結局1年だけだった。もちろん選手 としての華麗な守備など、広岡を評価してはい ても、もともと巨人出身であること、それに管理 野球(近代野球と支持者は言うかも知れないが) は、江夏にはやはり肌合いが合わなかったと言 わざるをえない。 監督としての広岡の評価は,勝負至上主義、 すなわち巨人主義を貫くための管理野球で 実績を作ったことは事実であるが、阪神ファン にはほとんど歓迎されていない。なぜなら、 野球に面白みが欠けるからである。 江夏は8月以降、二軍落ちするとそのまま出番 が与えられずに西武を自由契約となった。 まだまだやれると思っていた江夏、この不完全 燃焼がメジャーリーグ挑戦への伏線となった。 |
■ 1984年、江夏は最後に所属したライオンズで広岡達朗監督の方針についていけ
ず、喧嘩別れのような形で球界を去ることになった。阪神、南海、広島、日本ハム
、西武でこれ程の功績を残した大投手にもかかわらず、どの球団も江夏のために
球団主催の引退式を行うことをしなかった。
■ このため、文芸春秋社、雑誌「ナンバー」、名球会有志などが江夏のために引退式
主催の労を喜んで引き受けた。選んだ球場がプロ野球球場でなく、市民球場であ
った。東京都多摩市の多摩一本杉球場である。
■ この多摩一本杉球場は、後になって「江夏豊の引退式球場」として、地元でかえっ
て有名になっている。一本杉球場の管理事務室には当時使用したピッチャープレ
ートや写真パネルなどが大切に保存されているそうです。
■ かくて、昭和60年(1985)1月19日、この球場であの江夏豊の引退式式が行わ
れました。市民球場での異例の引退式は15000人の収容人員をはるかに超え
た20000人の人々が駆けつけました。
■ 賛同してくれたプロ野球人は、山本浩二、落合博満、福本豊、大杉勝男、江藤慎一
、高橋慶彦、福本豊、斎藤明夫、辻恭彦といったそうそうたるメンバーである。
また、駆けつけた芸能人は、たけし軍団、武田鉄也などが江夏の最後を盛り上
げてくれました。
■ 江夏ファンがこれだけの暖かい、しかも盛大な引退式を挙げたのですが、球団主催
でないため、「たった一人の引退式」と呼ばれるようになった。しかし、実際はこれ
程暖かく、素晴らしい引退式はないだろう。江夏としても本望だったに違いない。
■ 江夏の「たった一人の引退式」を終えた後、 江夏はこの後、米大リーグのブリュ
ワーズのテスト生として海を渡り、大リーグへ挑戦することになる。
多摩一本杉球場は現在では東京都の
高校野球予選球場としても使われている。
多摩一本杉球場
横浜虎キチ、68才。
江夏、村山、田淵時代以来の虎暦40年、現役では福原忍投手のファン。