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阪神タイガース伝説の大投手江夏豊、その魅惑の世界に迫ります。
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 ■ オールスターで連続9三振を奪ったのは、江夏豊が阪神に入団した5年目の1971年で
   あった。この年の前半戦江夏は不調であったが、オールスターに選ばれ、第1戦の7
   月17日、阪急西宮球場で先発した。
 ■ 両軍の先発メンバーは以下の通りでした。
   阪神からはショートに藤田平が選ばれ、キャッチャーは田淵幸一、阪神黄金のバッ
   テリー
が実現した。
全セ 先発メンバー
打順 守備 選手 チーム
1 左  高田 繁 巨人 
 2 遊  藤田 平  阪神 
 3 一  王 貞治  巨人 
 4  三 長嶋 茂雄  巨人 
 5 右  ロバーツ  ヤクルト 
 6  捕 田淵 幸一  阪神 
 7  中 谷沢 健一  中日 
 8 二  武上  四郎 ヤクルト 
 9  投 江夏 豊  阪神 
全パ 先発メンバー
打順 守備 選手 チーム
1  三 有藤 道世 ロッテ 
 2  二 基 満男  西鉄 
 3  中 長池 徳二  阪急 
 4  一 江藤 慎一  ロッテ 
 5  左 土井 正博  近鉄 
 6  右 東田 正義  西鉄 
 7 遊  阪本 敏三   阪急
 8  捕 岡村 浩二  阪急 
 9  投  米田 哲也  阪急  


















 ■ 大舞台に強い江夏ならでの大記録、オールスター連続9三振、オールスターでは投手
   の投球回数は3回に制限されているので、まず、破られることのない大記録である。
   2番の基(西鉄)は見逃し三振であるが、他の8人はすべて空振りの三振。当時のパ
   リーグの強打者は小細工をしない、おもいっきり強振するタイプであったが、見事な
   対決だった。   

打順 守備 選手 チーム 投球数 ボール球 三振
有藤 道世 ロッテ 5 2 空振り
2 基 満男  西鉄 5 2 空振り
3 長池 徳二  阪急 4 1 見逃し
4 江藤 慎一  ロッテ 5 2 空振り
5 土井 正博  近鉄 3 0 空振り
6 東田 正義 西鉄 6 2 空振り
7 阪本 敏三 阪急 6 2 空振り
8 岡村 浩二 阪急 3 0 空振り
9 代打 加藤 秀司 阪急 4 1 空振り
 
 ■ 江夏のすごいところはこの試合、2回に自ら3ランホームランを打ち、実質的に試合を
   決めてしまったことである。 江夏に触発されて、セリーグの後発ピッチャーも完全に
   抑え、ノーヒットノーランをやってのけてしまった。
全セ 0 4 0 0 0 0 1 0 0 5
全パ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

全 セ の 投 げ た 投 手
江夏豊(神) 渡辺秀武〈巨) 高橋一三(巨) 水谷寿伸(中) 小谷正勝(洋)

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 田淵幸一を私が最初に観たのは、東京6大学リーグ法政時代の時でした。田淵が打つホームランが他の誰よりも違って、滞空時間が長く、美しい放物線を描くホームランにしびれていました。
 その田淵が曲折あって、阪神タイガースに入団した時は小躍りしました。当時のスターは村山実から実質、江夏豊に移りつつあった。そこに田淵幸一が加わり、いわゆる「黄金のバッテリー」誕生となった。
そして、田淵幸一は藤村富美男、村山実に続く3代目のミスタータイガースと呼ばれるようになった。
背番号は22、大学での通算本塁打も22、さらにルーキーイヤーの本塁打数も22と、22という数字と不思議な縁を背負ったスーパースターだった。現在背番号22は藤川球児、球児頑れ。
江夏豊と田淵幸一の黄金のバッテリーは、阪神タイガースファンにとっては、例え、試合に負けても、江夏の胸のすくような快速球、田淵の芸術的な美しい放物線ホームランに酔いしれた、至福の時代であった。 
■ 江夏豊・田淵幸一 黄金バッテリーの記録
  記 録 備 考
黄金バッテリーの期間 1969年~1975年の7年間 田淵の負傷欠場などで
実質約5年間 
    
黄金バッテリーの
オールスター出場回数
1969年~1975年の7年間
連続出場
二人とも連続7年出場 
7年間の江夏の記録  勝敗      122勝78敗
(年平均 17勝11敗)
奪三振        1598
(年平均 228)
奪三振王       4回
〈1969年ー1972年)
最多勝利        1回 
(1973年)
7年間の田淵の記録 
 打率         0.256  
 本塁打        22本
〈年平均 31本)
打点          498
(年平均 71打点)
 
本塁打王 1回 
(1975年)

 ■ 江夏豊の田淵幸一評
 六大学随一の捕手といってもやはり、アマチュア、プロの入団当初はどうしても、名捕手辻恭彦と比較されてしまう。強肩は決して引けをとらなかったが、リード面、捕球術、投球コントロールなど課題が多かった。徐々に捕手としての力もつけてきて、田淵は阪神の正捕手の座を掴んだ。田淵を田淵たらしめたのは何といっても、天性の才能からくるバッティング、特にホームランを打つ才能にあった。
 ある時、江夏が田淵のバッティング練習を見ていた時の感想。後藤正治著の「牙 江夏豊とその時代」によれば、「バッターの力量は側でバットの素振りをみているとだいたいわかる。いい打者ほど、ピュン、ピュンという小気味いいのである。ところが、田淵に関してはヒューン、ヒューンとまるでぱっとしない。ところがフリーバッティンでは、素晴らしく飛距離が出る。練習時間も他の選手の1/2だったという。-こ奴は打つことの天才だー」田淵評については、江夏のこの言葉で十分だろう。
 ■ 田淵幸一の江夏豊評
 田淵自身、一人前の捕手にしてくれたのは「村山実監督とユタカ(豊)」とはっきり明言している。看板選手だった二人は性格的には相当違っていたが、田淵が江夏豊の人物像について、江夏は「真に意味での投手職人」と表現している。以下、後藤正治著の「牙ー江夏豊とその時代」での田淵の江夏評。「彼はね、解説者をしている今もボールを持っているんです。投手職人なんです。目の前にマイクがあるからといって言い方を変えるわけじゃない。嫌いなやつとは口もきかない。虚勢と映るかもしれんが、エースと呼ばれた投手はそういうもんなんです。誰もが丸くなっていくわけだけど、彼だけは変わらない。江夏は江夏。死ぬまでそうでしょう。そうであって欲しい。それ以外の江夏は見たくない。
 ■ 江夏豊と田淵幸一の共通点
 江夏豊は一匹狼の無頼派、一方、田淵幸一は誰にも好かれ、裏表のない素直なおぼっちゃんと全く対照的な二人ではあったが、お互い通じ合う共通点があったことも見逃すことはできない。
負傷、病気に泣く 江夏、田淵ともあれだけ才能と実力がありながら、ケガ、
病気に泣かされた。長嶋茂雄、王貞治、衣笠祥雄などが
引退までこれと言ったケガがなかったことと好対照である。
江夏は、入団7年目頃からは血行障害や心臓疾患が悪化
し服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増。往年
の快速球がなりをひそめた。しかし、ここから江夏はリリ
ーフエースへの道を開く、本当の野球道を磨いた。

田淵は、死球に泣かされた。長嶋茂雄の生涯死球数は43、
王貞治111、田淵の生涯死球数は128である。特に、2年
目の広島戦での死球で昏睡転倒、致命的な打撃を受けた。
後遺症が残り、一時は捕手から、負担の軽い一塁手、外野
の廻ることもあった。しかし、その後、田淵は一本足打法で
よみがえり、ホームランを量産した。
阪神を追われる 江夏豊は阪神在籍9年の後、不満足なトレードでの南海への
移籍を皮切り、広島、日本ハム、西武と渡り歩いた。西武
時代を除き、江夏の活躍はどこでも光っていたが、これ程の
スター選手を生え抜き選手と扱わず、はっきり言って阪神を
追われる恰好となった。ほぼ同時代に活躍した藤田平と
好対照であった。

一方、田淵幸一も阪神在籍10年の後、世紀のトレード、
阪神から田淵・古沢憲司、クラウンから真弓明信・竹之内
雅史・若菜嘉晴・竹田和史の2対4の大型トレードで西武に
移籍した。江夏、田淵にとって、トレードは結果的に野球術
の幅を広げることになったが、あれだけのスター選手であっ
た二人に対して阪神、ファンは阪神を追われたと思っている
ファンが多く、寂しい気持ちであったことは間違いない。
江夏は黒い交際、大麻事件が影響しているかも知れないが、
江夏、田淵が一度でも良いから、阪神の監督とし
ての姿をぜひ見てみたいと思うのは私だけではないでしょう。
それでも阪神がふるさと  江夏、田淵は、生え抜き選手としてではなく、結局、阪神を
追われることになったにもかかわらず、二人の心のふるさと
はやはり、阪神タイガースであった。
江夏、田淵は甲子園球場の雰囲気に一番合っていたし、
縦縞のユニフォーム以外は私は見たくなかった。
阪神上層部の稚拙な球団運営にもかかわらず、阪神ファン
に愛され、その意味では二人は幸せものと言えるでしょう。
引退後、江夏は阪神への愛着は人一倍であり、田淵は
星野仙一監督下で阪神打撃コーチとして2003年のリーグ
優勝に貢献した。
いずれにしても、二人は阪神からあまり良い待遇を受けな
かったといえ、野球の心のふるさとは阪神であることは
間違いない。

 ■ 江夏豊vs王貞治 そして村山実vs長嶋茂雄
    V9巨人黄金時代に敢然と闘争心を燃やし続けた男が村山実と江夏豊である。
    宿命のライバルにふさわしい組み合わせであった。
    江夏の新人時代に村山実から、「俺はこっち(長嶋)、お前はあっち(王)」とライ
    バル指名を受けた江夏はその通り、永遠のライバルとして多くの人にその対決
    を楽しませてくれた。江夏vs長嶋、村山vs王でなく、やはり、江夏vs王、村山
    vs長嶋でなくててはならなかった。高卒、大卒同士の対決という以外に宿命の
    組み合わせであった。事実、村山は長嶋に異常なまでのライバル意識があった
    し、有名な天覧試合ホームランを打たれてもあれはファールだったと最後まで
    言っていた。江夏は長嶋の天真爛漫の性格に闘争心は沸かなかったらしく、や
    はり、ライバルは稀有なホームラン打者王でなくてはならなかった。
 
 ■ 江夏豊vs王貞治の通算成績
打数 安打数 本塁打   通算打率 三振数 四球数   死球数
258 74 20  0.287 57 57 0
    通算打率は0.287、世紀のライバル対決に相応しく、互いに一歩も譲らない数字
    が物語っている。
    三振と本塁打、これが二人の対決の醍醐味であった。取った三振数57、被本塁
    打は20、これは王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く
    本塁打を打たれたのも江夏である。 本当の意味で真剣勝負の結果と言える。
    真剣勝負なら、例え本塁打を打たれても満足する江夏ならでは偉業で、勝負を逃
    げることはなかった。 
    特筆すべきは死球が0である。王を貶めようとする気は全くなく、生涯の真のライ
    バルとして競った。
 ■ 王から奪三振日本記録達成
    息づまる力と力、技と技の対決の中でライバル心の圧巻は奪三振日本記録353
    を破る354を達成した時だった。今までの稲尾和久の記録353個目を王から取っ
    た。354個目の日本記録も王から奪った。これは明らかにライバル王から奪うと
    いう強い意志があったためである。
    先輩村山実が節目となる記録達成のときには必ず長嶋から奪うことを決めていた
    と言われており、江夏も同じように王から狙っていたことは間違いない。
    354を取った後、他の打者からはわざと三振を取らずに切り抜け、再び王の打席
    が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業をやってのけた
    逸話は江夏の王に対するライバル心を見事に物語っている。
          
    若い時の江夏は,血気盛んで何かと問題を起こしそうな気配が漂っているので、
    試合中のトラブルや退場処分もさぞや多かったと勝手に思っていました。ところ
    が、スポーツライター織田淳太郎さんが書いた「審判は見た!」を読んでいたら、
    意外な事実が書かれていました。以下はすべてこの「審判は見た!」からの引用
    です。本は新潮新書  審判は見た!で、2003年発行の新書です。

 ■ 「意外に思うやろうけど俺の退場処分は18年の現役生活で大里さんの件での1回
    しかないんだよね」と語っています。
   たった一度の退場処分、それは昭和48年6月12日の阪神対巨人戦だった。8回
   裏一死二塁でリリーフにたった江夏、打者は宿敵王貞治、カウント2-2から、内角
   際どいシュートを投げた。1球目のストライクとほぼ同じコースだったが、大里晴信
   球審ははボールのジャッジ。江夏は大里球審に体当たりし、即退場を命じられた。
   退場を覚悟していた江夏は悠然とベンチに向かっていた。その時実況を担当してい
   たNHKの西田善夫アナウンサーが「さっそう江夏、男っぷり」、解説の小西得郎
   さんが「肩をゆすって花道を去るように」と口走ったため、視聴者から「暴力礼賛だ!
   」抗議を受けたという逸話が残っている。これには伏線があったと当時報道されて
   いた。前の月の5月21日の阪神対ヤクルト戦の最終回、ヤクルトの攻撃で、二塁
   塁審の大里が微妙なプレーをセーフとし、大もめにもめた。これが、尾を引き、阪神
   はさよなら負けして、江夏が敗戦投手になったという伏線である。

 ■ しかし、江夏自身の言によれば、「大里さんは巨人を贔屓にするような審判じゃな
   かったからね。あの時はキャッチャーの田淵が凄まじいクレームをつけて、大里さん
   の足まで踏んづけとったし、今にも手を出しそうな雰囲気だったので、咄嗟の判断
   よ。俺が身代わりで、退場処分になろうと思ったわけ。チームを考えると俺より田淵
   が退場になったほうがマイナスやったからね。数日後。横浜中華街で大里さんとば
   ったり会った時、『この前はすみませんでした』と謝ったら、大里さんも『おう』と気軽
   に声を返してくれた。もう大里さんをいっぺんに好きになった」であり、退場処分に
   恨みなど何も感じていなかった。

 ■ 審判とのトラブルの経験が、選手としての器を大きくしたと感じているのも江夏
    だった。以下、江夏の言。
    「今でも思い出すのは昭和56年の日ハム対阪急戦。天王山ともいえる四連戦の
    四戦目。バッターが福本で、2-1からインハイに俺にとったら最高のボールを放
    った。それを球審の藤本典征さんがボールと判定した。俺もすっかり冷静さを失っ
    て藤本さんの胸をついてしまった。その時、藤本さんや一塁塁審の村田康一さん
    に『それ以上するな』と強くたしなめられた。退場させる前に俺の目を覚まさせよう
    としてくれたわけよ。藤本さんや村田さん以外にもセ・リーグ、パ・リーグの審判に
    はいろいろと勉強させてまらったし、感謝というのが今の心境だね。大きくしてい
    ただきましたというのが正直な気持ちよ。」

 ■ 「そういう意味で、以前、審判不要論がでた時、俺は大反対だった。
   「コンピューターに判定させようというわけやけど、野球そのものが味気ないものに
   なる。野球というのは人間がやているから面白いんや。ミスジャッジがあるかも知れ
   ない。選手とのトラブルだって派生してくるだろう。だからこそドラマや感動というのが
   生まれてくるんや。肝心なことは選手と審判が切磋琢磨して」、それぞれのテクニッ
   クの向上を目指すということじゃないかな。選手だって一割台しか打てない者もおるし、
   三割も打てる者もおる。審判だって同じよ」

 ■ リリーフエースと呼ばれるようになったのは、実質江夏豊が初代といえる。最近の
       例では、佐々木主浩、岩瀬仁紀などがいて、わが阪神タイガースには藤川球児。
     江夏以前の1970年代以前では、稲尾和久のようにエースが先発とリリーフの両方
    で活躍するのが普通であった。当時は「リリーフ投手」という言葉もなかったが、実質
    的にはその役割を果たしてきた。
 ■ 阪神から、南海にトレードされた時、当時の野村監督から、先発からリリーフへと
   「野球革命」に説得された江夏はふんぎりをつけてリリーフエースへの道を歩んだ。
       記録面では、下の表にように5回のセーブ王となったが、リリーフエースの面目
    躍如と言われるには、記録では現れないここぞという時に抑える投手である。
    江夏の21球で代表される絶体絶命のピンチでも度々抑えていた。
   この意味では、江夏は、黄金の阪神時代に次ぐ第2の黄金時代を築いたのである。
   
  セントラル パシフィック
選手 チーム S(SP) 選手 チーム S(SP)  
1974 星野 仙一 中日 10 佐藤 道郎 南海 13    
1975 鈴木孝政  中日   21 村田兆治  ロッテ 13
1976 鈴木孝政  中日   32 佐藤 道郎  南海 16
1977 鈴木孝政  中日   23 江夏豊  南海 22
1978 新浦寿夫  巨人   25 山口高志  阪急 26
1979 江夏豊  広島  31  金城基泰  南海 20
1980 江夏豊  広島   30 金城基泰  南海   19
1981 角三男  巨人  28  江夏豊  日本ハム  28 
1982 山本和行 阪神 40 江夏豊 日本ハム  37
1983  斉藤明夫  大洋  32  森繁和  西武  39 
1984 山本和行 阪神 34 山沖之彦 阪急 25
1985 中西清起 阪神 30 石本貴昭 近鉄 26
  最近5年間のセーブ王
2004 五十嵐亮太 ヤクルト 42 三瀬幸司
横山道哉
ダイエイ
日本ハム 
32
2005 岩瀬仁紀 中日 46 小林雅英 ロッテ 29
2006 岩瀬仁紀 中日 40 マイケル 日本ハム  39
2007 藤川球児 阪神 46 馬原孝浩 ソフトバンク 38
2008 クルーン 巨人 41 加藤大輔 オリックス 33
2009 岩瀬仁紀 中日 41 武田久 日本ハム  34
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横浜虎キチ、68才。
江夏、村山、田淵時代以来の虎暦40年、現役では福原忍投手のファン。
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