阪神タイガース伝説の大投手江夏豊、その魅惑の世界に迫ります。
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田淵幸一を私が最初に観たのは、東京6大学リーグ法政時代の時でした。田淵が打つホームランが他の誰よりも違って、滞空時間が長く、美しい放物線を描くホームランにしびれていました。
その田淵が曲折あって、阪神タイガースに入団した時は小躍りしました。当時のスターは村山実から実質、江夏豊に移りつつあった。そこに田淵幸一が加わり、いわゆる「黄金のバッテリー」誕生となった。
そして、田淵幸一は藤村富美男、村山実に続く3代目のミスタータイガースと呼ばれるようになった。
背番号は22、大学での通算本塁打も22、さらにルーキーイヤーの本塁打数も22と、22という数字と不思議な縁を背負ったスーパースターだった。現在背番号22は藤川球児、球児頑れ。
江夏豊と田淵幸一の黄金のバッテリーは、阪神タイガースファンにとっては、例え、試合に負けても、江夏の胸のすくような快速球、田淵の芸術的な美しい放物線ホームランに酔いしれた、至福の時代であった。
■ 江夏豊・田淵幸一 黄金バッテリーの記録
記 録 | 備 考 | |
黄金バッテリーの期間 | 1969年~1975年の7年間 | 田淵の負傷欠場などで 実質約5年間 |
黄金バッテリーの オールスター出場回数 |
1969年~1975年の7年間 連続出場 |
二人とも連続7年出場 |
7年間の江夏の記録 | 勝敗 122勝78敗
(年平均 17勝11敗)
奪三振 1598
(年平均 228)
|
奪三振王 4回
〈1969年ー1972年)
最多勝利 1回 (1973年)
|
7年間の田淵の記録 |
打率 0.256
本塁打 22本 〈年平均 31本)
打点 498
(年平均 71打点)
|
本塁打王 1回 (1975年) |
■ 江夏豊の田淵幸一評
六大学随一の捕手といってもやはり、アマチュア、プロの入団当初はどうしても、名捕手辻恭彦と比較されてしまう。強肩は決して引けをとらなかったが、リード面、捕球術、投球コントロールなど課題が多かった。徐々に捕手としての力もつけてきて、田淵は阪神の正捕手の座を掴んだ。田淵を田淵たらしめたのは何といっても、天性の才能からくるバッティング、特にホームランを打つ才能にあった。
ある時、江夏が田淵のバッティング練習を見ていた時の感想。後藤正治著の「牙 江夏豊とその時代」によれば、「バッターの力量は側でバットの素振りをみているとだいたいわかる。いい打者ほど、ピュン、ピュンという小気味いいのである。ところが、田淵に関してはヒューン、ヒューンとまるでぱっとしない。ところがフリーバッティンでは、素晴らしく飛距離が出る。練習時間も他の選手の1/2だったという。-こ奴は打つことの天才だー」田淵評については、江夏のこの言葉で十分だろう。
■ 田淵幸一の江夏豊評
田淵自身、一人前の捕手にしてくれたのは「村山実監督とユタカ(豊)」とはっきり明言している。看板選手だった二人は性格的には相当違っていたが、田淵が江夏豊の人物像について、江夏は「真に意味での投手職人」と表現している。以下、後藤正治著の「牙ー江夏豊とその時代」での田淵の江夏評。「彼はね、解説者をしている今もボールを持っているんです。投手職人なんです。目の前にマイクがあるからといって言い方を変えるわけじゃない。嫌いなやつとは口もきかない。虚勢と映るかもしれんが、エースと呼ばれた投手はそういうもんなんです。誰もが丸くなっていくわけだけど、彼だけは変わらない。江夏は江夏。死ぬまでそうでしょう。そうであって欲しい。それ以外の江夏は見たくない。
■ 江夏豊と田淵幸一の共通点
江夏豊は一匹狼の無頼派、一方、田淵幸一は誰にも好かれ、裏表のない素直なおぼっちゃんと全く対照的な二人ではあったが、お互い通じ合う共通点があったことも見逃すことはできない。
負傷、病気に泣く | 江夏、田淵ともあれだけ才能と実力がありながら、ケガ、 病気に泣かされた。長嶋茂雄、王貞治、衣笠祥雄などが 引退までこれと言ったケガがなかったことと好対照である。 江夏は、入団7年目頃からは血行障害や心臓疾患が悪化 し服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増。往年 の快速球がなりをひそめた。しかし、ここから江夏はリリ ーフエースへの道を開く、本当の野球道を磨いた。 田淵は、死球に泣かされた。長嶋茂雄の生涯死球数は43、 王貞治111、田淵の生涯死球数は128である。特に、2年 目の広島戦での死球で昏睡転倒、致命的な打撃を受けた。 後遺症が残り、一時は捕手から、負担の軽い一塁手、外野 の廻ることもあった。しかし、その後、田淵は一本足打法で よみがえり、ホームランを量産した。 |
阪神を追われる | 江夏豊は阪神在籍9年の後、不満足なトレードでの南海への 移籍を皮切り、広島、日本ハム、西武と渡り歩いた。西武 時代を除き、江夏の活躍はどこでも光っていたが、これ程の スター選手を生え抜き選手と扱わず、はっきり言って阪神を 追われる恰好となった。ほぼ同時代に活躍した藤田平と 好対照であった。 一方、田淵幸一も阪神在籍10年の後、世紀のトレード、 阪神から田淵・古沢憲司、クラウンから真弓明信・竹之内 雅史・若菜嘉晴・竹田和史の2対4の大型トレードで西武に 移籍した。江夏、田淵にとって、トレードは結果的に野球術 の幅を広げることになったが、あれだけのスター選手であっ た二人に対して阪神、ファンは阪神を追われたと思っている ファンが多く、寂しい気持ちであったことは間違いない。 江夏は黒い交際、大麻事件が影響しているかも知れないが、 江夏、田淵が一度でも良いから、阪神の監督とし ての姿をぜひ見てみたいと思うのは私だけではないでしょう。 |
それでも阪神がふるさと | 江夏、田淵は、生え抜き選手としてではなく、結局、阪神を 追われることになったにもかかわらず、二人の心のふるさと はやはり、阪神タイガースであった。 江夏、田淵は甲子園球場の雰囲気に一番合っていたし、 縦縞のユニフォーム以外は私は見たくなかった。 阪神上層部の稚拙な球団運営にもかかわらず、阪神ファン に愛され、その意味では二人は幸せものと言えるでしょう。 引退後、江夏は阪神への愛着は人一倍であり、田淵は 星野仙一監督下で阪神打撃コーチとして2003年のリーグ 優勝に貢献した。 いずれにしても、二人は阪神からあまり良い待遇を受けな かったといえ、野球の心のふるさとは阪神であることは 間違いない。 |
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プロフィール
横浜虎キチ、68才。
江夏、村山、田淵時代以来の虎暦40年、現役では福原忍投手のファン。
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