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江 夏 豊 が 仕 え た 歴 代 監 督 | ||
藤 本 定 義
1967年-1968年 |
巨人の川上哲治を「哲」と唯一呼び捨てにでき
た阪神タイガースの伝説的総師で江夏の育て の親。 孫ほどの年齢差があったので、江夏を本当 の子供のように可愛がった。世間しらずで右も 左も分からない江夏。父親のいない貧しい 家庭環境で育っていて、わがままで、ひねくれ た性格、そして野球馬鹿。そんな江夏だが、 江夏は10年に1人のピッチャーであることを 見抜いて大事に育てた。 藤本監督は「先発ローテーション」を本格的 に導入した最初の人で、当時は勝つためには エースの連続登板も普通のことだった。「30勝 投手を出すのは監督の恥」と言った位だった。 ローテーションをきちんと守った投手起用行い、 1962年と1964年は小山正明、村山実、バッ キーを軸にリーグ優勝した。 1997年、心筋梗塞のため死去、享年78でした。 |
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後 藤 次 男
1969年 |
藤本監督が健康上の理由で、監督を辞任 したため、後任に後藤次男ヘッドコーチが就 任した。後藤監督はつなぎの後藤と言われ、 大物監督藤本定義、吉田義男の後釜とし て暫定的な監督の役目を2度果たした。 後藤次男は「クマさん」とチーム仲間から呼 ばれていて、怖さを全く感じさせない、そし てアッケラカンな人柄で、当時新人に近い 江夏とも麻雀を気軽に興じていたらしい。 後に、江夏は「野球ノート」で詳細な記録 をつける習慣を身につけたが、もとはと言え ばクマさんの「勝負事ノート」と言われてい る。野球以外にも麻雀、パチンコ、競馬、 競輪の結果も書かれていた。後藤は「俺は 酒も飲まないし、子供もいない、野球とこの ノートをつけるのが趣味だ、いまではクセに なって書かないと落ち着かない」と語って いたそうです。 |
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村 山 実 1970年-1972年 |
闘志むき出し、全身を使ったダイナミックな ピッチング「ザトペック投法」で阪神ファンに 強烈な印象を残した。特に巨人に対しての ライバル心が強く、村山実vs長嶋茂雄の 構図は江夏豊vs王貞治と共に多くのプロ 野球ファンを楽しましてくれた。 村山は監督と同時に、投手としての江夏の 師匠だった。阪神のエース村山から、次の エースとしての江夏に対して、厳しく、英才 教育を行った。選手の中でしかられ役も 江夏だったし、相手に対する闘争心 「江夏豊vs王貞治」という厳しくも質の高い 投球術を磨くのに貢献した。 阪神時代の江夏は監督との軋轢が多かっ たが、育ての親藤本定義と師匠村山実だけ は相性が合い、両監督だけは尊敬していた。 村山実の「涙の引退式」には田淵らと共に 江夏が率先して村山を肩車に乗せてその 偉大な功績を讃えたことは忘れられない。 1998年,直腸ガンのため61歳の若さで この世を去ったのが本当に惜しまれる。 |
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金 田 正 泰
1973年-1974年 |
村山が同年限りで現役を引退したため、
1973年からは正式な阪神監督に就任した。 選手時代から監督に至るまで、阪神一筋 を貫いた。 選手時代は俊足巧打、守備もうまく、一番 監督辞任後は野球解説者にはならず、 |
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吉 田 義 男
1975年 |
吉田監督と言えば、真っ先に思い出すの |
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野 村 克 也
1976年-1977年 |
江夏が阪神から南海へ電撃トレードされ た時、野村監督は当時の江夏の投球力、 性格を熟知していた。そのアイディアはリリ ーフ専門投手に転向させることだった。 ただでは納得しないとみた野村は「野球 革命を起こそう」という殺し文句で、「誇り 高いリリーフエース」の地位を確立させた。 そして後に有名になった「野村再生工場」、 江夏が第一号と言える。 1999年~2001年野村は阪神の監督を 勤めたが、3年とも最下位に終わった。 阪神ファンは野村監督の手腕に賛否両論 に大きく分かれた。しかし、野村監督は 新庄剛志、桧山進次郎、赤星憲広ら若手を 一人前に育てた功績は大きい。 江夏との関係でいえば、「野球IQ」の点 で二人ともずば抜けた高さで、全く相性が 良いと言えます。なので、野村監督の 私生活は別としても恐らく、江夏は野村 監督の野球術を深く尊敬しいると思わ れる。 |
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古 葉 竹 識
1978年-1980年
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広島東洋カープを史上初のリーグ優勝に導いた 1979年、有名な「江夏の21球」の場面で、古葉 |
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大 沢 啓 二 1981年-1983年
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パ・リーグ優勝争いを演じるようになった日本 |
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広 岡 達 朗
1984年
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入団当初から危惧された予想が的中し、広岡 達朗監督とは結局1年だけだった。もちろん選手 としての華麗な守備など、広岡を評価してはい ても、もともと巨人出身であること、それに管理 野球(近代野球と支持者は言うかも知れないが) は、江夏にはやはり肌合いが合わなかったと言 わざるをえない。 監督としての広岡の評価は,勝負至上主義、 すなわち巨人主義を貫くための管理野球で 実績を作ったことは事実であるが、阪神ファン にはほとんど歓迎されていない。なぜなら、 野球に面白みが欠けるからである。 江夏は8月以降、二軍落ちするとそのまま出番 が与えられずに西武を自由契約となった。 まだまだやれると思っていた江夏、この不完全 燃焼がメジャーリーグ挑戦への伏線となった。 |
横浜虎キチ、68才。
江夏、村山、田淵時代以来の虎暦40年、現役では福原忍投手のファン。